昭和43年4月23日 朝の御理解
中村良一
御理解 第21節
「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心と言うのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」
心が神に向かうのを、信心と言うのじゃと。心が神に向かうのを、信心と言うのじゃ。ところが、心が神に向かわずに、ただ、おかげの方にだけ、心が向いておるとするなら、それは、お道で言う信心じゃない事になるのです。どうでしょうか。商売繁盛を願うちゃならんと仰るのじゃない。健康の事を願うなと仰るのじゃない。もう、人事百般、氏子の身の上の事、何なりとも、実意を持って願えと仰る。五穀豊穣、牛馬の事に至るまで、人事百般、全ての事をお取次を頂いてお願をせよと仰る。けれども、それはどこまでも、実意を持って願えと仰る。けども、その、願う事、その事が、信心じゃない。信心とは、何処までも、わが心が神に向かうのを、信心と言うのじゃという。そこんところをですね。一つはっきり、自分の心の中に、頂いておきませんと、信心が進みもしません、本当のおかげにもなって参りません。
だから、皆さん、自分の信心は、この神に向こうておるのじゃなくて、おかげに向かっておるなと、気付かれたらですね。本当にあの、信心に向かう者でなからなければ、信心じゃないのだと分からせて貰うてですね。おかげを頂きますと、結局、信心を頂こうという事になるのです。自分の心が、一歩でも、神様へ近づかせて頂く事を、願う事になるのです。それでいて、人間、生身を持っておりますから、痛い痒いもある。様々な難儀に直面致しますと、難儀から開放して頂きたい。ですから、その事は、願うのと一緒ではない。なるほど、人事百般、(?)の事に至るまで、五穀豊穣、健康の事、全ての事を願えと仰いますけれども、願う事が信心だと思うておっては、いわゆる、本当のおかげになっていかない、信心が進まない。しかも、実意を持って願えと仰る。その実意が、心が神に向かう信心になりませんと、実意と言う事すらが、分からんのです。それも、お参りすりゃ、するがたおかげ頂く。確かに、おかげ頂きますけれども。そういうおかげじゃ、それじゃね。それでは、どういう事になりましょうか。大きなおかげには、絶対なりませんですね。これでは。信心が浅いのです。浅いところに、大きな魚が住む筈がない。そういう、浅い、御利益目的の信心。そういう浅い信心で、大きなおかげは、絶対に受けられない。それは、浅いところに、大きな魚を求める様なものだからです。信心が、いよいよ、深まらにゃいかん。いよいよ、信心が成長せにゃいかん。そこには、私は、大きな魚が、言うなら、願わんでも住みつくのです。いよいよ、浅い信心から、深い信心にならせて頂く。それが、神に向かう信心なのですよ。本当に、一番初めのところにですね。わが心が神に向かうのを信心と言うのじゃと仰る。そこんところを分からにゃいかん。ところが、おかげに向かって、信心しておる。おかげに向かって信心する、なるほど、お願をする、おかげを頂くですよ。けども、それは、何処までも、浅いおかげです。よくよく、ここんところを一つ、まぁ、根本しての信心でなからにゃいけません。
今日、私、御神前に出らせて頂いてから、一番初めに頂きます御心眼がですね。あの、原健作と言う俳優が居りますでしょうが。原健作と言う人。けんは健康の健である、さくは作ると書いてある。原は、私は、このお腹の事だとこう思う。お腹の事と言うのは、心の事だと思う。私の腹一つでといった様な事を申しますのは、腹一つで、おかげ頂ける筈はないけん、心ひとつでという事なんです。あの人は、どん腹が太いとか。そのどん腹が、こうやって太かと言うのじゃない。心が太いという事です。ですから、腹は、心の事と、私は思うておる。いよいよ、心を健全にするという事。また、心を、いよいよ、健康な心にならせて頂く事を願うという事。作るという事は。胃腸は弱いくせに、心臓どんばっかりが強かち言うのがあります。心のですよ、心の胃腸が弱い。心の心臓ばっかり強い。厚かましか。あの人は心臓が強いでしょう。はぁあの人は心臓が強か。人の言いきらん事を言うたり、人のしきらん事をしたり。はぁあの人は心臓が強いかと。まぁいうなら、あの人は、厚かましいとこう言う。そういう、心臓どんばっかり、強うしてから、心の胃腸は弱い。私は、まず、心の胃腸を整えなければいけん。胃腸が強うなからにゃいけん。何を食べても、障らぬ当たらぬ胃腸を頂かなきゃいけん。これが、健康の元である。心を健康にする。心を健康に作っていくという事は、何を頂いても、障らない、当たらない。それが、どころか、いよいよ、血になり肉になりして行くというおかげを頂かなければ、これはもう、願わんでも、心臓の方は願わんでも良い。大きな願いを立てるという。その、大きな願いを立てる事は、けなげな事である、いうならば。大きなおかげを頂きたいと願う事は、有難い事である。大きな願いを持たにゃいけんと言われるから、願いを持つ事は良い事である。けども、どうぞ、その大きなおかげを頂かせて下さい、頂かせて下さいという様な願いなら、こらまぁ心臓だ。それよりも、まず、心の胃腸の方の健康を願わにゃならん。障らない、何を食べても。しかも、それが、いよいよ、障らんだけではなくて、いよいよ、血になり肉になるのだ。
昔、頂いた御理解の中にございますですよね。どんなに、例えば、苦い思いをするようなものでも、はぁこれこそ、心の胃腸に一番効く、千振りの様なものだと思うて頂けと仰る。それを、苦い思いをすると、もう苦い思いを、すぐ顔に表す。そして、こげな苦いもの、頂かんという様な事では、心が強うならん。こんな臭いもの食べられるか。例えば、ニンニクの様なもの。はぁこりゃ、いよいよ、ニンニク、ね。健康のおかげを頂くために、こう言う臭いものを、神様は食べさせて下さるのだ。苦い臭いを言うちゃならん。それこそ、心の胃腸が、いよいよ、健康になる、いわば、妙薬なのだという風に頂かせて貰うたら、嫌な事も有難く。そりゃ、苦い思いをするけれども。それを頂くこと。それによって、それが、いよいよ、心が強うなっていくこと。これは有難い。楽しい事である。自分の好きなもんばっかりを食べる、飲むしよるから。胃腸が、弱い上に弱くなっていく。ここのところをね、一つ、頂かせて貰わなきゃいけません。
私、毎日、こうして、奉仕させて頂いて。本当にあの、ちょうど十二時まで、御用させて頂いて。あちらへ下がらせて頂きます。そすと、ご飯の準備が出来ておる。本当に有難い。ところがですね、この有難いと思うておるのが、本当のもんじゃないなぁと思う事があるんです。というのはですね。時々、その、お食事の方が間に合っていない時がある。俺が、十二時に下がる事がわかっとってから、お前、何しようかという様に、腹立たしい心になってくる。俺はもう、夕べから、お茶も水も飲んどらんとぞ、という様なものが、心の中にある訳です。本当に、ご結界で、例えば、御用させて頂いておる時には、それこそ、ひもじいも、それこそ、暑いも寒いも感じんほどに、有難いと思うておるけれども。ひとたび、裏の方へ下がると。もう自分の心が、お食事が、五分遅れた、十分遅れたと言うて、腹を立てておる。ほんなもんじゃないなとこう思う。ところがです。ここんところが、やはり、稽古では難しいのである。
ここへ参ってきても、神の言う通りにする氏子が少ない。神の言うた事は、途中で落としてしまい。家に帰って、自分の良いようにするから、おかげにならんと仰る。確かに、皆さん、ここでは有難いでしょうが。なるほどそうだと、こう分かるでしょうが。ところが、家に帰ったら、もうそれが、希薄なものになっている。薄いものになっている。または、忘れてしもうておる。そして、それから、自分の良いようにするから、おかげはなしと仰る。だから、私が、ここで有難いと思うておるものはです。たった、裏、そこの控えまで下がる間に、もう変わっておる。こりゃ、人に言う段のこっじゃない。私自身がね、こりゃ、おかげ受けなきゃいけないなとこう思うのです。そして、私が、有難い有難いと思うておるのは、ほんなもんじゃないなとこう思うのです。はぁ、今日は家内が、忙しかったっじゃろ。間に合わなかったっじゃろ。どんなにでも、思い替えが出来るのに、準備が出来てないと、もう腹が立つ。これでは、おかげが頂かれん。という事を、私は知っておるから。そこんところを、すぐその、次の思い替えが出来ますけれどもです。とっさに、そういう事に合いますと、それを、自分の心の中に頂きこなす事が出来ん。それでも、やはり、それをまぁ、頂かせて頂こうと努力をするのです。ようやく、治まる。もうこれを、言葉にでも出したり、態度にでも出したら、もうお終い。心にじっと感じる。いわゆる、ほんなもんじゃないなぁと、分からせて頂かなきゃいけん。
いよいよ、自分の心が、大きく、または太く、豊かにならせて頂かにゃ。それには、どうしても、本気で、信心の稽古をしなければいけん。本気で、自分の心が、神に向こうとかなければ出来ん。おかげにども、向いとっただけでは、絶対、失敗をする。心が、神に向こうておらなければ、心が神に向こうて行きよる事を、自分ながらも、楽しませて頂かせて貰うて。そこんところが、頂きこなせれるようになる事が有難い。
今日の御理解の、最後の締めくくりというか、決め手と言う。それを、私、頂いておったけれども。ちょっと、お話し中に忘れてしもうた。どうぞ、今日の御理解の締めくくりをね。皆さんで一つ、締めくくって頂きたい。どうぞ、私が頂いた事は、原健作。これは、私どもの心が、神に向こうておらなければ、心を、いよいよ、健全にしようという心すら起こらない。おかげに、御利益に向かった信心では駄目。信心に向かったものでなからなきゃならない、という様な事を申しましたですが。いよいよ、今日は、その原健作に取り組ませて貰うて、その決め手とでも言うものをですね。どうぞその、銘々で、一つ、工夫して頂きたい。有難い表現を頂いておったんですけれども。そこんところを、どうしても思い出さない。どうぞ、心が、いよいよ、健康になれば、いよいよ、心が健全になれば、どのようなものを頂いても、障らない様になれる事だけは間違いない。そこに、私は、本当の信心と、それに伴うところのおかげは、約束されるのでございますから。どうぞ、どうでも、今日一日、ゆっくり、心の健康を願わせて貰う。それに精進させて貰うおかげを頂いて貰いたいと思います。どうぞ。